更新日:2025年11月4日
梵天山法性院 善光寺 〒879-0316大分県宇佐市下時枝 電話 0978-32-7676
= 今月の掲示伝道 =
≡ 山門 ≡
≡ 東参道 ≡
= 令和7年11月の予定 =
■4日 午後1時半~
 例会
= 令和7年12月の予定 =
■未定
 十日十夜法要例会
■31日 午後11時半~
 除夜の鐘
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≡  &  ≡
Q:
A:

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= 境内つれづれ =
≡ 深秋の善光寺境内の木々、彩も鮮やか…!? ≡
聖きみ名
 急速に深まりゆく秋の装いの裡、境内の柿が熟れた実を枝に残し、その葉が一枚一枚綺麗に染めなされ落葉しています。 【天は何ともいはねども 四時(よとき)は常に誤らず 春は芽生て夏しげり 秋は實(みのり)て冬収む】の歌の如く實(みのり)のピークを迎え次の冬収(おさむ)のフレーズでは幾ばくかの寂寞感を覚えます。 齢を重ねる毎にその想いは強く…、昨年、今年と同級の友、親しい知人の訃報に接する機会が多くなりました。 【花も緑の千草をも 散りぬ枯れぬと聞くからは 我身もいつか秋風に 散りぬるものぞ秋の風】これまで住職として檀信徒の多くの方々を送らせて頂きましたが、私自身にも残された時間が余りない…とその想いを強めるこの頃です。
 さて、3年前に故エリザベス女王の国葬儀を紹介し、その儀式が日中に関わらず、一日の終わり、昏暮(くれ)から晩を再生の始まりと大切にするイギリス国教会の『晩祷(ばんとう)の祈り』をベースに執り行われたと報告しましたが、仏教も昏暮(くれ)を大切にします。
 明治から大正にかけ、光明念仏の教えを広められた『山崎辨栄(べんねい)』上人が著された『如来光明礼拝儀』中『昏暮(くれ)の礼拝(らいはい)』をご紹介しましょう。 【至心に感謝す 大慈悲に我等が如来(阿弥陀様)よ 如来が与え給へる 明けき光と清き影気(えいき)と新しき糧(かて)とに依りて 今日一日の務めを果たしたる恩徳を感謝し奉る。 また如来の神聖と正義と恩寵(おんちょう)との光明(ひかり)を被り(こうむり) 今日聖意(みむね)に契う(ちかう) 務めを得たりしは まったく聖寵(みめぐみ)の然から(しから)しむところ 深くその恩徳を感謝し奉る】に始まり、【至心に懺悔(ざんげ)す。 では、私自身は罪悪の凡夫故、なすべからざる罪を造り、なすべきことを怠る罪をなし、心より阿弥陀様の前に懺悔いたします。 阿弥陀様よ…、再び私が過ちを犯さないようお導きください…。】 そして最後は【至心に回向(えこう)す】では(私は今、阿弥陀様という尊き存在にご縁を頂きました。 どうぞ…阿弥陀様…この愚かな私をお念仏裡、無限なる光明の世界にお導き頂き、永遠の命をお与えください。)
 このように仏教の昏暮の礼拝儀式も、昏暮を明日への再生の始まりと教えているのです。 また一日の終わりの礼拝でもありますが、「昏暮の礼拝」を私が命を終え、阿弥陀様の御国「お浄土」に還らして頂く時の礼拝と頂くと、総てのフレーズがよりダイナミックに展開されてきませんか? 近頃この想いを強くし、私の臨終もこのようにと…、また葬儀も『昏暮(くれ)の礼拝』で送って頂くよう希望しています。
合掌卯 
= コ・ラ・ム =
≡ 聖徳太子と善光寺 ≡
 今年は聖徳太子没後1400年にあたるそうです。 今東京国立博物館で「聖徳太子と法隆寺展」が開催されているのも、それにちなんでのことです。 「薬師如来座像」(金堂東の間の本尊)「玉虫の厨子」などをはじめ数々の名品が出展されています。 その中の一つに「善光寺如来御書箱」も展示されています。 平成5年(1993)信州善光寺の呼びかけで全国に散在する119ヶ寺の善光寺、また善光寺如来を安置する寺院、善光寺如来と深い縁に繋がる寺院、神社200余の会員にて結成された『全国善光寺会』『通称ゼンコウジサミット』が信州善光寺にて発会、その折奈良法隆寺の当時の122世高田良信管長様とお話しする機会があり、善光寺如来と聖徳太子の間に手紙が交わされたことをお伺いしたところ、下記の如くせつめいされました。
聖徳太子は亡き父の用明天皇を弔い、七日七夜にわたって念仏を行った後、その功徳を善光寺の阿弥陀如来に伺った際に、如来から送られた返事(御書)を収めたとされる箱である。全体に蜀江錦が貼られ厳封されている。
「善光寺の古文書22『善光寺如来伝』」で第三幅の④に描かれている、善光寺如来の返事がこの箱に収められているということです。
 この外にも『善光寺如来伝』には聖徳太子が度々登場します。
〈第二幅〉
⑨聖徳太子、物部の悪逆非道が増したため、討伐を決意。
⑩一時聖徳太子は敗走し追い詰められたが、椋の木の幹が裂けて、太子をかくまう。
⑪聖徳太子は四天王像を自刻し、勝利の暁には四天王寺を建立する事を誓う。
⑫太子の願いが通じ、八幡大菩薩の幡を先頭に攻め寄せる。
⑬物部守屋が矢で射られ、合戦が終わる。
⑭太子は一光三尊仏を難波の堀江にお迎えに行くが「待て」との仏勅により帰京する。
⑮太子愛馬黒駒に乗り、富士を始め諸国巡遊(27歳)・42歳達磨に出会う。
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 このように善光寺の御本尊善光寺如来と聖徳太子は深いつながりがあるのです。 このため善光寺でも聖徳太子は大切におまつりしてきました。 昔境内にあった塔頭(境内にある小寺・お堂)の一つに「太子堂」があり、聖徳太子がおまつりされていました。 後に別の塔頭増長院に閻魔様と一緒にまつられていましたが、今は本堂におまつりしています。 それが「聖徳太子二歳立像」です。 上半身裸で鮮やかな赤い袴をつけ合掌した像です。
 法隆寺展にも同じ二歳像が出展されています。 これは「南無仏像」とも呼ばれ、太子二歳のとき、東を向いて南無仏を唱えたといういい伝えから造られた像です。
参考文献 : 豊前善光寺史
善光寺の古文書 (第30回 令和4年10月)
『 開山 空也上人 』
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空也上人像(豊前善光寺蔵)
  30回は善光寺を創建したと伝えられている空也上人をとりあげます。 「伝えられている」としたのは、創建した年とされる天徳2(958)年の頃の古い資料が残っていないからです。
 現在、空也上人開祖に関して書かれている文書で一番古いものは元禄10(1697)年のものです。 次に古いものがその2年後、元禄12(1699)年の上に掲げた文書です。 この文書は第15回『善光寺に御茶室があった話』で取り上げました。 元禄10年の文書より創建の様子が精しく書かれているのでこの文書を取り上げました。 天徳2年から741年後の文書です。
 創建以来の文書も存在していたのでしょうが、長い間に失われてしまったものと考えられます。 そこで今回は伝えられてきた空也上人創建の様子を上の文書で辿ってみたいと思います。 さらに空也上人が善光寺を創建したということが考えられるかどうか、ということも少し考えてみたいと思います。
 2022年の今から創建の958年を遡っていけば、実に1061年前ということになります。 空也上人から始まり、千年余、寺に心を寄せ支えて頂いた多くの方々のお陰で寺の歴史を保ってこれたことは何よりもありがたいことに思われます。 開基以来、脈々と受け継がれてきた、善光寺のお念仏の原初を考えてみたいと思います。

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■令和6年 お盆のお参り(棚経)の予定表
■令和3年 秋彼岸 大分米一升運動(R3年9月)
■令和3年 春彼岸 大分米一升運動(R3年3月)
■令和2年 秋彼岸 大分米一升運動(R2年9月)
■令和元年 秋彼岸 大分米一升運動(R1年9月)
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