更新日:2026年3月5日
梵天山法性院 善光寺 〒879-0316大分県宇佐市下時枝 電話 0978-32-7676
= 今月の掲示伝道 =
≡ 山門 ≡
≡ 東参道 ≡
= 令和8年3月の予定 =
■4日 午後1時半~
 例会
= 令和8年4月の予定 =
■4日 午後1時半~
 例会
■8日 午前9時半~午後4時半
 降誕祭(甘茶供養)
■21日 午後1時~
 おせったい
■25~27日
   午前10時~午後3時
 本堂仮ご開帳
   (善光寺縁起図公開)
 春彼岸米一升運動のお知らせ
春彼岸・米一升運動へのご協力のお願い
 期間 3月17日~23日
 ご協力米は「善光寺 布教堂」で受け付けます
。またご連絡を頂ければお預かりに伺います。 
 
≡ 善光寺絵伝の解説へ ≡
≡  &  ≡
Q:
A:

お参りの道順はここをクリックして下さい。
= 境内つれづれ =
≡ 境内の草木も、もうすぐ春ですとばかり、花を咲かせ始めています。 ≡
聖きみ名
 1月はアッという間に『行って』2月は『逃げて』3月は『去る』の喩を子どもの頃地区の古老から教えてもらった記憶がありますが…まさにアッという間の3月、毎朝7時半に「今日も元気で、気を付けて行ってらっしゃい…ご無事で…」の想いを込め、梵鐘を撞きますが、その時間に昇る太陽の位置が少しずつ北へ、その時間に仰ぐ太陽が日に日に高くなり、寒暖を繰り返しながらも、春の訪れは確かなようです。
 間もなく春のお彼岸『3月20日のお中日を真ん中に17日~23日まで』を迎えます。 もう30年ほど前の秋の彼岸入りの日、NHKのお昼のニュースを見ていると、東京からのニュースがNHK大分放送局に切り替わり、大分市の某墓地に彼岸参りする様子を伝え、アナウンサー曰く【…墓前に手を併せ、先祖の霊を慰めていました。】とアナウンスしていましたが、私には『霊を慰める』の言葉が僧侶として納得できず、ついついNHK大分支局に電話をしてしまいました。 かって『豪雪で立往生』の件でもメディアに苦言を呈しましたが…決してメディアには恨みはございません… 「…先ほどのローカルニュースでお彼岸の墓参の様子をアナウンスされていましたが、先祖の霊を慰めていました。 の表現は僧侶として納得できません…」、相手「なぜですか?」、「慰めるという言葉は私が主体となり相手をマアーマアーと鎮め、なだめるニュアンスがあり、また慰めなければ相手から私が負のイメージを受け…慰めなければ霊が私達に祟(たたる)のか?という感じも付きまとい…、できれば霊を慰めると言うアナウンスを止めてほしい…。 墓参をして心が慰められ、癒されるのは、お参りをさせて頂いた私達ではないでしょうか?」 その日の夕方のニュースで、アナウンサー曰く「…先祖の墓前で手を合わせ先祖を偲び参拝していました。」と訂正されていました。
 私の命を10代遡れば、私の命を支える命の根っ子1000人以上のご先祖の命が連鎖(おかげ)となって…私の今がある。 おかげさま おかげさまの心を育てる事がお彼岸の修行でもあるのです。
合掌 
= コ・ラ・ム =
≡ 聖徳太子と善光寺 ≡
 今年は聖徳太子没後1400年にあたるそうです。 今東京国立博物館で「聖徳太子と法隆寺展」が開催されているのも、それにちなんでのことです。 「薬師如来座像」(金堂東の間の本尊)「玉虫の厨子」などをはじめ数々の名品が出展されています。 その中の一つに「善光寺如来御書箱」も展示されています。 平成5年(1993)信州善光寺の呼びかけで全国に散在する119ヶ寺の善光寺、また善光寺如来を安置する寺院、善光寺如来と深い縁に繋がる寺院、神社200余の会員にて結成された『全国善光寺会』『通称ゼンコウジサミット』が信州善光寺にて発会、その折奈良法隆寺の当時の122世高田良信管長様とお話しする機会があり、善光寺如来と聖徳太子の間に手紙が交わされたことをお伺いしたところ、下記の如くせつめいされました。
聖徳太子は亡き父の用明天皇を弔い、七日七夜にわたって念仏を行った後、その功徳を善光寺の阿弥陀如来に伺った際に、如来から送られた返事(御書)を収めたとされる箱である。全体に蜀江錦が貼られ厳封されている。
「善光寺の古文書22『善光寺如来伝』」で第三幅の④に描かれている、善光寺如来の返事がこの箱に収められているということです。
 この外にも『善光寺如来伝』には聖徳太子が度々登場します。
〈第二幅〉
⑨聖徳太子、物部の悪逆非道が増したため、討伐を決意。
⑩一時聖徳太子は敗走し追い詰められたが、椋の木の幹が裂けて、太子をかくまう。
⑪聖徳太子は四天王像を自刻し、勝利の暁には四天王寺を建立する事を誓う。
⑫太子の願いが通じ、八幡大菩薩の幡を先頭に攻め寄せる。
⑬物部守屋が矢で射られ、合戦が終わる。
⑭太子は一光三尊仏を難波の堀江にお迎えに行くが「待て」との仏勅により帰京する。
⑮太子愛馬黒駒に乗り、富士を始め諸国巡遊(27歳)・42歳達磨に出会う。
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 このように善光寺の御本尊善光寺如来と聖徳太子は深いつながりがあるのです。 このため善光寺でも聖徳太子は大切におまつりしてきました。 昔境内にあった塔頭(境内にある小寺・お堂)の一つに「太子堂」があり、聖徳太子がおまつりされていました。 後に別の塔頭増長院に閻魔様と一緒にまつられていましたが、今は本堂におまつりしています。 それが「聖徳太子二歳立像」です。 上半身裸で鮮やかな赤い袴をつけ合掌した像です。
 法隆寺展にも同じ二歳像が出展されています。 これは「南無仏像」とも呼ばれ、太子二歳のとき、東を向いて南無仏を唱えたといういい伝えから造られた像です。
参考文献 : 豊前善光寺史
善光寺の古文書 (第30回 令和4年10月)
『 開山 空也上人 』
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空也上人像(豊前善光寺蔵)
  30回は善光寺を創建したと伝えられている空也上人をとりあげます。 「伝えられている」としたのは、創建した年とされる天徳2(958)年の頃の古い資料が残っていないからです。
 現在、空也上人開祖に関して書かれている文書で一番古いものは元禄10(1697)年のものです。 次に古いものがその2年後、元禄12(1699)年の上に掲げた文書です。 この文書は第15回『善光寺に御茶室があった話』で取り上げました。 元禄10年の文書より創建の様子が精しく書かれているのでこの文書を取り上げました。 天徳2年から741年後の文書です。
 創建以来の文書も存在していたのでしょうが、長い間に失われてしまったものと考えられます。 そこで今回は伝えられてきた空也上人創建の様子を上の文書で辿ってみたいと思います。 さらに空也上人が善光寺を創建したということが考えられるかどうか、ということも少し考えてみたいと思います。
 2022年の今から創建の958年を遡っていけば、実に1061年前ということになります。 空也上人から始まり、千年余、寺に心を寄せ支えて頂いた多くの方々のお陰で寺の歴史を保ってこれたことは何よりもありがたいことに思われます。 開基以来、脈々と受け継がれてきた、善光寺のお念仏の原初を考えてみたいと思います。

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■令和6年 お盆のお参り(棚経)の予定表
■令和3年 秋彼岸 大分米一升運動(R3年9月)
■令和3年 春彼岸 大分米一升運動(R3年3月)
■令和2年 秋彼岸 大分米一升運動(R2年9月)
■令和元年 秋彼岸 大分米一升運動(R1年9月)
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