更新日:2025年7月4日
梵天山法性院 善光寺 〒879-0316大分県宇佐市下時枝 電話 0978-32-7676
= 今月の掲示伝道 =
≡ 山門 ≡
≡ 東参道 ≡
= 令和7年7月の予定 =
■4日 午後1時半~
 例会
■未定
 九州光明会布教研修会
= 令和8年8月の予定 =
■4日 午前10時~
 うら盆会大施餓鬼会
■13日~15日
 うら盆会
■16日 午後7時~9時
 閻魔踊り
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≡  &  ≡
Q:
A:

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= 境内つれづれ =
≡ 早すぎる梅雨明け、紫陽花はもう少し雨を…と、願っているよう…? ≡
聖きみ名
 今年は梅雨入り宣言と同時に激しい雨が降り…、例年より早い梅雨明けとなりました。 宇佐平野も田植えが終わり、水田にはまだ弱々しい早苗が風に揺らぎ、懐かしい光景が広がり、心を和ましてくれます。
 今年は昨今の米騒動?に端を発した日本の農業政策が問われていますが、お檀家のある地区では高齢化等で米作から撤退、ほとんどの田んぼが、国内大手弁当チェーン企業が米作に参入、米騒動問題提起する将来の農業を考えさせられる田植え光景でした。
 さて、この時期になると自然に口ずさむ唄のフレーズが蘇りますぅ。 それは田中木叉(もくしゃ)先生「※注※」御作『心田田植え歌』です。 【山は青々 日はうらら 田には漫まん 慈悲の水 秋はみのらん 無量寿を うたえ南無阿弥 田植え歌 青い稲葉は その中に 白いお米のみのるため 死ぬるからだは その中に 死なぬいのちの 育つため】ほんの短い歌の内容ですが、苗の植付け、成長、稔り、刈り取りまでを歌いながら、人間の真の生きるべき姿を教えてくれます。
 2009年4月、万般のテーマに渡り、思考しそれを著作したジャーナリスト『立花 隆』さんが亡くなりました。 彼のテーマは多岐にわたり(宇宙)(神)(臨死体験、死)までに及び、立花さんが挑む?大テーマは【人間はどこからきて どこへ還って行くのか】であったのです。 まさに宗教の教えの根幹をなす『私はどこから来? この世に何をしに? 最後にどこへ還っていくのか?』に尽きるのです。 田植え歌を通し、私たちの命の養いへの大切さを教えてくれています。 農家の方にあなたは田植えをする目的は?と尋ねれば、皆秋にはお米を収穫するためですと答えます。 私は藁(わら)が目的ですと言う人は皆無でしょう。 私たちは誰でも心の奥に本当の死なない命を稔らす、仏性(ぶっしょう)を宿しています。 その尊い命をお念仏裡、お慈悲の「田んぼ」で育て、輝かせ、磨いて頂き、無量寿(死なない命・永遠の命)を稔らせて下さい…。 との願いが込められている歌なのです。
 翻って日本、世界で命の在り方、生き方が問われている混迷の時代、本当の命とは…? 本当に生きるとは…? この田植え歌を通し、今一度考えてみたいものです。
合掌 
 ※注※ 田中木叉
 (1884~1974)長崎県五島生まれ、長じて上京、一高、東大では谷崎潤一郎氏と同期、卒業時は恩賜の銀時計を授与さる。 英文学・哲学専攻、慶應義塾大学教授、山崎辨栄上人と知遇、生涯を布教、辨栄上人の顕彰、遺稿の執筆に捧ぐ、念仏行は毎日5時間に及ぶ。
= コ・ラ・ム =
≡ 聖徳太子と善光寺 ≡
 今年は聖徳太子没後1400年にあたるそうです。 今東京国立博物館で「聖徳太子と法隆寺展」が開催されているのも、それにちなんでのことです。 「薬師如来座像」(金堂東の間の本尊)「玉虫の厨子」などをはじめ数々の名品が出展されています。 その中の一つに「善光寺如来御書箱」も展示されています。 平成5年(1993)信州善光寺の呼びかけで全国に散在する119ヶ寺の善光寺、また善光寺如来を安置する寺院、善光寺如来と深い縁に繋がる寺院、神社200余の会員にて結成された『全国善光寺会』『通称ゼンコウジサミット』が信州善光寺にて発会、その折奈良法隆寺の当時の122世高田良信管長様とお話しする機会があり、善光寺如来と聖徳太子の間に手紙が交わされたことをお伺いしたところ、下記の如くせつめいされました。
聖徳太子は亡き父の用明天皇を弔い、七日七夜にわたって念仏を行った後、その功徳を善光寺の阿弥陀如来に伺った際に、如来から送られた返事(御書)を収めたとされる箱である。全体に蜀江錦が貼られ厳封されている。
「善光寺の古文書22『善光寺如来伝』」で第三幅の④に描かれている、善光寺如来の返事がこの箱に収められているということです。
 この外にも『善光寺如来伝』には聖徳太子が度々登場します。
〈第二幅〉
⑨聖徳太子、物部の悪逆非道が増したため、討伐を決意。
⑩一時聖徳太子は敗走し追い詰められたが、椋の木の幹が裂けて、太子をかくまう。
⑪聖徳太子は四天王像を自刻し、勝利の暁には四天王寺を建立する事を誓う。
⑫太子の願いが通じ、八幡大菩薩の幡を先頭に攻め寄せる。
⑬物部守屋が矢で射られ、合戦が終わる。
⑭太子は一光三尊仏を難波の堀江にお迎えに行くが「待て」との仏勅により帰京する。
⑮太子愛馬黒駒に乗り、富士を始め諸国巡遊(27歳)・42歳達磨に出会う。
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 このように善光寺の御本尊善光寺如来と聖徳太子は深いつながりがあるのです。 このため善光寺でも聖徳太子は大切におまつりしてきました。 昔境内にあった塔頭(境内にある小寺・お堂)の一つに「太子堂」があり、聖徳太子がおまつりされていました。 後に別の塔頭増長院に閻魔様と一緒にまつられていましたが、今は本堂におまつりしています。 それが「聖徳太子二歳立像」です。 上半身裸で鮮やかな赤い袴をつけ合掌した像です。
 法隆寺展にも同じ二歳像が出展されています。 これは「南無仏像」とも呼ばれ、太子二歳のとき、東を向いて南無仏を唱えたといういい伝えから造られた像です。
参考文献 : 豊前善光寺史
善光寺の古文書 (第30回 令和4年10月)
『 開山 空也上人 』
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空也上人像(豊前善光寺蔵)
  30回は善光寺を創建したと伝えられている空也上人をとりあげます。 「伝えられている」としたのは、創建した年とされる天徳2(958)年の頃の古い資料が残っていないからです。
 現在、空也上人開祖に関して書かれている文書で一番古いものは元禄10(1697)年のものです。 次に古いものがその2年後、元禄12(1699)年の上に掲げた文書です。 この文書は第15回『善光寺に御茶室があった話』で取り上げました。 元禄10年の文書より創建の様子が精しく書かれているのでこの文書を取り上げました。 天徳2年から741年後の文書です。
 創建以来の文書も存在していたのでしょうが、長い間に失われてしまったものと考えられます。 そこで今回は伝えられてきた空也上人創建の様子を上の文書で辿ってみたいと思います。 さらに空也上人が善光寺を創建したということが考えられるかどうか、ということも少し考えてみたいと思います。
 2022年の今から創建の958年を遡っていけば、実に1061年前ということになります。 空也上人から始まり、千年余、寺に心を寄せ支えて頂いた多くの方々のお陰で寺の歴史を保ってこれたことは何よりもありがたいことに思われます。 開基以来、脈々と受け継がれてきた、善光寺のお念仏の原初を考えてみたいと思います。

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■令和6年 お盆のお参り(棚経)の予定表
■令和3年 秋彼岸 大分米一升運動(R3年9月)
■令和3年 春彼岸 大分米一升運動(R3年3月)
■令和2年 秋彼岸 大分米一升運動(R2年9月)
■令和元年 秋彼岸 大分米一升運動(R1年9月)
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