更新日:2025年9月11日
梵天山法性院 善光寺 〒879-0316大分県宇佐市下時枝 電話 0978-32-7676
= 今月の掲示伝道 =
≡ 山門 ≡
≡ 東参道 ≡
= 令和7年9月の予定 =
■4日 午前10時~
 うら盆会大施餓鬼会
 ■20日~26日
  秋彼岸 「大分米一升運動」
    ご協力のお願い
= 令和7年10月の予定 =
■4日 午後1時半~
 例会
■未定~
 秋季別時念仏修養会
 九州光明会婦人部総会
≡ 善光寺絵伝の解説へ ≡
≡  &  ≡
Q:
A:

お参りの道順はここをクリックして下さい。
= 境内つれづれ =
≡ 9月になっても一向に収まらない『酷暑』でも季節は少しづつ… ≡
聖きみ名
 9月になっても厳しい残暑(酷暑)の毎日、更には列島各地に降り注ぐ異常な豪雨,竜巻、日本の海で発生する台風等の被害の報道に接する時、まるで列島、地球が悲鳴をあげているとも受け取れます。 またこの悲鳴は、人間が本当に生きるとは何か…?を問いかける大宇宙の意志(阿弥陀様)からの警告かもしれません。
 秋のお彼岸を迎えようとしています。 さて、お彼岸(おかげ様の世界に生き抜く)へ到達する修行、六波羅蜜(ロッパラミツ・六種の修行)の一つに布施行があります。 今年もお盆のお檀家様へのお参り(棚経)をさせて頂きましたが、30年程前のお盆参りで忘れ得ぬお布施を頂きました。
 それはK地区のSさん宅にお参りをした時でした。 Sさんは警察官として勤務、その間奥様を亡くされ、子女を育て上げ、退職後は郷里にて趣味の野菜等を育て、慎ましくお暮しでしたが、唯一の気がかりは末娘T子さんの事でした。 …T子さんは幼少の頃予防注射が因でその後O市の病院にて入院加療の身となり、お盆、正月に一時帰宅、私がお参りさせて頂いた時も仏間の続き部屋で休んでいました。 読経を終え、挨拶もそこそこに帰ろうとするとSさん「方丈さんビールを持って帰って下さい…」私は内心シメタ … 一瞬当時の瓶ビール1ダースの箱が脳裏をかすめましたが、しかしSさんが私に下さったのはビール1本、しかも栓が抜かれ三分の一程飲みかけの気の抜けたビールでした。 これには私もアングリ…、一瞬面食らいポカーンとしました…が、すぐに私は次の光景がイメージされました。 日頃は離れて暮らす父と病床の娘さん、お盆を迎え病院からの一時帰宅、夕方の墓参を終え久々の父と娘の夕餉の膳、日頃は飲まないビールを一本買って、娘と共に万感の思いを以ってコップに注ぐ父の想いが伝わってきたのです。 そうすると飲みかけのビールを不思議と有難く頂く気持ちに…お暇しSさん宅の庭先のレンガの破片で飲みかけのビールを、軽自動車の後部に倒れないように、ゆっくりと6kmの道を帰寺、冷蔵庫に…夕食の時Sさん、娘さんの気持ちを想い、気の抜けたビールを私も三分の一だけ飲ませて頂きました。 そのSさん、娘さんも亡くなって約20年余…お盆になるとSさんのビールのお布施が脳裏に有難く蘇ります…。
 布施行とは、施す人の気持ち、施し物の本当の価値、布施を頂く人の気持ちが相まって本当のお布施となるのです。 これを仏教では「三輪清浄」(さんりんしょうじょう)と言います。
 今私たちは阿弥陀様から頂いたかけがえのない命、私たちが生かされる限りない量る(はかる)ことのできない、『おかげさま』の『お布施』の真っ只中に生かされているのです。
 お彼岸を迎えるにあたり本当に生きるとは何か…? をお念仏裡問いかけてみましょう。
合掌 
-豊前善光寺 令和7年9月ホームページより再掲載- 
= コ・ラ・ム =
≡ 聖徳太子と善光寺 ≡
 今年は聖徳太子没後1400年にあたるそうです。 今東京国立博物館で「聖徳太子と法隆寺展」が開催されているのも、それにちなんでのことです。 「薬師如来座像」(金堂東の間の本尊)「玉虫の厨子」などをはじめ数々の名品が出展されています。 その中の一つに「善光寺如来御書箱」も展示されています。 平成5年(1993)信州善光寺の呼びかけで全国に散在する119ヶ寺の善光寺、また善光寺如来を安置する寺院、善光寺如来と深い縁に繋がる寺院、神社200余の会員にて結成された『全国善光寺会』『通称ゼンコウジサミット』が信州善光寺にて発会、その折奈良法隆寺の当時の122世高田良信管長様とお話しする機会があり、善光寺如来と聖徳太子の間に手紙が交わされたことをお伺いしたところ、下記の如くせつめいされました。
聖徳太子は亡き父の用明天皇を弔い、七日七夜にわたって念仏を行った後、その功徳を善光寺の阿弥陀如来に伺った際に、如来から送られた返事(御書)を収めたとされる箱である。全体に蜀江錦が貼られ厳封されている。
「善光寺の古文書22『善光寺如来伝』」で第三幅の④に描かれている、善光寺如来の返事がこの箱に収められているということです。
 この外にも『善光寺如来伝』には聖徳太子が度々登場します。
〈第二幅〉
⑨聖徳太子、物部の悪逆非道が増したため、討伐を決意。
⑩一時聖徳太子は敗走し追い詰められたが、椋の木の幹が裂けて、太子をかくまう。
⑪聖徳太子は四天王像を自刻し、勝利の暁には四天王寺を建立する事を誓う。
⑫太子の願いが通じ、八幡大菩薩の幡を先頭に攻め寄せる。
⑬物部守屋が矢で射られ、合戦が終わる。
⑭太子は一光三尊仏を難波の堀江にお迎えに行くが「待て」との仏勅により帰京する。
⑮太子愛馬黒駒に乗り、富士を始め諸国巡遊(27歳)・42歳達磨に出会う。
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 このように善光寺の御本尊善光寺如来と聖徳太子は深いつながりがあるのです。 このため善光寺でも聖徳太子は大切におまつりしてきました。 昔境内にあった塔頭(境内にある小寺・お堂)の一つに「太子堂」があり、聖徳太子がおまつりされていました。 後に別の塔頭増長院に閻魔様と一緒にまつられていましたが、今は本堂におまつりしています。 それが「聖徳太子二歳立像」です。 上半身裸で鮮やかな赤い袴をつけ合掌した像です。
 法隆寺展にも同じ二歳像が出展されています。 これは「南無仏像」とも呼ばれ、太子二歳のとき、東を向いて南無仏を唱えたといういい伝えから造られた像です。
参考文献 : 豊前善光寺史
善光寺の古文書 (第30回 令和4年10月)
『 開山 空也上人 』
この欄をクリックすると古文書の拡大写真をご覧いただけます。

空也上人像(豊前善光寺蔵)
  30回は善光寺を創建したと伝えられている空也上人をとりあげます。 「伝えられている」としたのは、創建した年とされる天徳2(958)年の頃の古い資料が残っていないからです。
 現在、空也上人開祖に関して書かれている文書で一番古いものは元禄10(1697)年のものです。 次に古いものがその2年後、元禄12(1699)年の上に掲げた文書です。 この文書は第15回『善光寺に御茶室があった話』で取り上げました。 元禄10年の文書より創建の様子が精しく書かれているのでこの文書を取り上げました。 天徳2年から741年後の文書です。
 創建以来の文書も存在していたのでしょうが、長い間に失われてしまったものと考えられます。 そこで今回は伝えられてきた空也上人創建の様子を上の文書で辿ってみたいと思います。 さらに空也上人が善光寺を創建したということが考えられるかどうか、ということも少し考えてみたいと思います。
 2022年の今から創建の958年を遡っていけば、実に1061年前ということになります。 空也上人から始まり、千年余、寺に心を寄せ支えて頂いた多くの方々のお陰で寺の歴史を保ってこれたことは何よりもありがたいことに思われます。 開基以来、脈々と受け継がれてきた、善光寺のお念仏の原初を考えてみたいと思います。

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■令和6年 お盆のお参り(棚経)の予定表
■令和3年 秋彼岸 大分米一升運動(R3年9月)
■令和3年 春彼岸 大分米一升運動(R3年3月)
■令和2年 秋彼岸 大分米一升運動(R2年9月)
■令和元年 秋彼岸 大分米一升運動(R1年9月)
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