= 境内つれづれ = |
≡ 春のお彼岸 まだまだ余寒の日々が・・・ ≡ |
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聖きみ名 |
今年もアッという間に3月、境内のそこここに春の息吹を感じる季節となりました。 昨今の寒暖差に気を付けていたのですが風邪をひいてしまおい、未だまともな思考ができず、今月のこの欄コラムは彼岸月にちなみ、昨年9月のお彼岸の記事を再掲載させて頂きます。
『暑さ寒さも彼岸まで』春の訪れ行事として3月17日から20日のお中日を挟んで23日まで春のお彼岸を迎えます。 お彼岸と言えば先ずご先祖様のお墓参りがあげられ、『彼岸のお墓参り』とくると私にはさる人の4コマ漫画が頭をよぎります。 その漫画家は【フイ サンペイ】さん、1965年から朝日新聞に掲載された連載漫画『フジ三太郎』のお彼岸の墓参りにちなんだ漫画漫画です。 主人公三太郎は要領がよく、少々エッチなサラリーマン、お彼岸中日の紙面の題材はお彼岸のお墓参り、人々がお彼岸のお墓参りに行く様子を見た三太郎は、やおら電卓で計算を始めます。 『ご先祖様を2代、4代前、10代前と辿りながらご先祖様の数を調べ始めました。 両親が2人、祖父母が3代で4人、4代でX2、で数えると先祖様を10代前まで辿ってその数は1,024人、20代前で1,048,576人、30代前までとなると10億7374万1,824人となることを単純に計算した三太郎、1900年後半日本の総人口の10倍のご先祖様があるならば、わざわざ遠くまで彼岸の墓参りに行く必要なし、近くの他家のお墓にお参りしてもご先祖様のお墓参りをしたことになると、チャッカリ決め込んだ三太郎はそれを実行したのでした…。
この漫画に出会って以来私はこのネタをパクリ(失礼)これを長きに渡って法話に使わせて頂いています。 例えばお彼岸のお経と言っても過言ではない『般若心経』『波羅蜜多』(パーラミータ)とは彼岸に到ったという意、また『空』『南無阿弥陀仏』等々仏教用語を解説する時、また人権に関する講話に度々上記のフジ三太郎のご先祖様計算を入口に話をさせて頂きます。 この漫画は只笑いのネタとしてではなく、今私達が最も大事にしたい『おかげさま』の心を育んでいく起点を示唆しています。 仏教の教える悟りとは一言で言えば『おかげさま』を悟ることに尽きるのです。
ご先祖様あっての私…、間もなくお彼岸、ご先祖様に感謝し、今生きられる命を【おかげさま】へと育んでゆきたいものです。 |
合掌 |
= コ・ラ・ム = |
≡ 聖徳太子と善光寺 ≡ |
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今年は聖徳太子没後1400年にあたるそうです。 今東京国立博物館で「聖徳太子と法隆寺展」が開催されているのも、それにちなんでのことです。 「薬師如来座像」(金堂東の間の本尊)「玉虫の厨子」などをはじめ数々の名品が出展されています。 その中の一つに「善光寺如来御書箱」も展示されています。 平成5年(1993)信州善光寺の呼びかけで全国に散在する119ヶ寺の善光寺、また善光寺如来を安置する寺院、善光寺如来と深い縁に繋がる寺院、神社200余の会員にて結成された『全国善光寺会』『通称ゼンコウジサミット』が信州善光寺にて発会、その折奈良法隆寺の当時の122世高田良信管長様とお話しする機会があり、善光寺如来と聖徳太子の間に手紙が交わされたことをお伺いしたところ、下記の如くせつめいされました。 |
聖徳太子は亡き父の用明天皇を弔い、七日七夜にわたって念仏を行った後、その功徳を善光寺の阿弥陀如来に伺った際に、如来から送られた返事(御書)を収めたとされる箱である。全体に蜀江錦が貼られ厳封されている。 |
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「善光寺の古文書22『善光寺如来伝』」で第三幅の④に描かれている、善光寺如来の返事がこの箱に収められているということです。
この外にも『善光寺如来伝』には聖徳太子が度々登場します。
〈第二幅〉
⑨聖徳太子、物部の悪逆非道が増したため、討伐を決意。
⑩一時聖徳太子は敗走し追い詰められたが、椋の木の幹が裂けて、太子をかくまう。
⑪聖徳太子は四天王像を自刻し、勝利の暁には四天王寺を建立する事を誓う。
⑫太子の願いが通じ、八幡大菩薩の幡を先頭に攻め寄せる。
⑬物部守屋が矢で射られ、合戦が終わる。
⑭太子は一光三尊仏を難波の堀江にお迎えに行くが「待て」との仏勅により帰京する。
⑮太子愛馬黒駒に乗り、富士を始め諸国巡遊(27歳)・42歳達磨に出会う。 |
本ページ【≡ 善光寺絵伝の解説へ ≡】でご覧ください。この行をクリックしてもご覧になれます。 |
このように善光寺の御本尊善光寺如来と聖徳太子は深いつながりがあるのです。 このため善光寺でも聖徳太子は大切におまつりしてきました。 昔境内にあった塔頭(境内にある小寺・お堂)の一つに「太子堂」があり、聖徳太子がおまつりされていました。 後に別の塔頭増長院に閻魔様と一緒にまつられていましたが、今は本堂におまつりしています。 それが「聖徳太子二歳立像」です。 上半身裸で鮮やかな赤い袴をつけ合掌した像です。
法隆寺展にも同じ二歳像が出展されています。 これは「南無仏像」とも呼ばれ、太子二歳のとき、東を向いて南無仏を唱えたといういい伝えから造られた像です。 |
参考文献 : 豊前善光寺史 |
善光寺の古文書 (第30回 令和4年10月) |
『 開山 空也上人 』 |
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空也上人像(豊前善光寺蔵) |
30回は善光寺を創建したと伝えられている空也上人をとりあげます。 「伝えられている」としたのは、創建した年とされる天徳2(958)年の頃の古い資料が残っていないからです。
現在、空也上人開祖に関して書かれている文書で一番古いものは元禄10(1697)年のものです。 次に古いものがその2年後、元禄12(1699)年の上に掲げた文書です。 この文書は第15回『善光寺に御茶室があった話』で取り上げました。 元禄10年の文書より創建の様子が精しく書かれているのでこの文書を取り上げました。 天徳2年から741年後の文書です。
創建以来の文書も存在していたのでしょうが、長い間に失われてしまったものと考えられます。 そこで今回は伝えられてきた空也上人創建の様子を上の文書で辿ってみたいと思います。 さらに空也上人が善光寺を創建したということが考えられるかどうか、ということも少し考えてみたいと思います。
2022年の今から創建の958年を遡っていけば、実に1061年前ということになります。 空也上人から始まり、千年余、寺に心を寄せ支えて頂いた多くの方々のお陰で寺の歴史を保ってこれたことは何よりもありがたいことに思われます。 開基以来、脈々と受け継がれてきた、善光寺のお念仏の原初を考えてみたいと思います。 |
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