更新日:2018年7月4日
梵天山法性院 善光寺 〒879-0316大分県宇佐市下時枝 電話 0978-32-7676
= 今月の掲示伝道 =
≡ 山門 ≡
≡ 東参道 ≡
= 平成30年7月の予定 =
■4日(午後1時半~)
 例会
= 平成30年8月の予定 =
■4日(午前10時~)
 大施餓鬼会
■13~15日
 うら盆会
■16日(午後7時~9時)
 閻魔踊り
≡  &  ≡
Q:
A:

お参りの道順はここをクリックして下さい。
= 境内つれづれ =
≡ 梅雨も終息の頃… ≡
 梅雨のさなか、おそらく日本で一番遅いんじゃないかと思われる、宇佐地方の田植えも終わったようです。 この頃では休耕田も多く、往時の如く見渡す限り一面の水田風景とはいきませんが…、それでも農家の人々はお田植えという農事の営みには昔から特別の思いがあるようです。
 田植機で植えられた直後の弱々しい早苗も、わずかな日にちの経過に、田んぼに日々根を伸ばし、緑も濃さを増し逞しく育っているようです。
 昔は(?)『二十年まえぐらいまで?』ある地区のお檀家さんの皆さんがそろって寺へ参拝、「皆作(かいさく)御礼参り」(おかげさまで今年も無事にお田植えが終わりました阿弥陀様有難うございました。)またお寺でも2日間『皆作法要』が勤められました。 その根底には『おかげさまで…有難うございました…』という大自然に培われた日本人の心の基本的有り様が伺われます。 大切にしたいものですね…。

 今月は『田中木叉上人』の『心田田植え歌』を紹介いたします。

 『山は青々 日はうらら 田には漫々 慈悲の水 秋は稔らん 無量寿を
   歌え南無阿弥 田植え歌 青い稲葉は その中に 白いお米の
    稔るため 死ぬるからだは その中に 死なぬ命の 育つため』
= コ・ラ・ム =
びんずるさま(賓頭盧尊者)

 かっては本堂を出て、渡り廊下が鉤の手に曲がる一角に座っておられたのは、「びんずるさま」、賓頭盧尊者である。 今は修理、彩色が施され布教堂内陣脇に座っておられる。
 この仏様は「なでぼとけ」とも呼ばれる。 目が病んでいる時には、この仏様の目をなでお願いすると病が癒えるといわれ、お寺のお堂の前によく座っておられる。 信濃善光寺では本堂妻戸台右脇に座っておられる。 
参考文献 : 豊前善光寺史
善光寺の古文書 (第13回 平成30年7月)
『寄進米の終焉』

 前回は慶應二年(1867)から明治二年(1869)にかけて出された善光寺寄附米についての四通の文書を取り上げました。 その中で寄附米はどうやら明治二年迄は旧幕時代と同様に渡されたらしい、と前回考えました。
 では明治三年以降ははどうなったのでしょうか。 上の文書はその明治三年閏十月にだされた嘆願書の最後の部分です。 内容は四日市役所と通して日田県庁へ寄附米を従来通りお渡しください、という嘆願です。
 明治三年一月には寄附米に関する重要な命令が明治政府から出されています。 「上地令」です。 この文書の4行目上から「此度上地ニ相成」と書かれています。 「上地」というのは江戸時代まで認められていた寺院や神社の領地を没収する、という命令です。
 そこで「上地=寄附米もなくなるので、寺の寄附米は是非これまでの通りお願いします。」と嘆願書を出したのです。
 
 明治二年以降の嘆願などの経緯は文書で見ると、次のようになっているようです。 
明治元年(1868)11月29日 寄附米についての呼び出し状

そこで
明治二年(1869)3月1日 嘆願書提出
 2月30日四日市役所に呼び出され、
 寄附米の経過についてまとめ提出
 する様にいわれ徹夜で作成し1日
 朝届けた。

その結果
 7月10日去年の寄附米手形交付
 12月今年(1869)の寄附米手形交付
ところが
明治三年(1870)1月 「上地令」が出される

そこで
 閏10月再度嘆願書提出
さらに
  11月再再度嘆願書提出

その後どうなったかがわかる文書は残っていませんが、明治二年で寺への寄附米は終焉を迎えたのではないかと思われます。
ここ』又は上の写真をクリックすると読みなどが参照できます。
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■平成30年 春彼岸 大分米一升運動(H30年3月)
■善光寺に伝わる古文書紹介と解説の項目を追加しました。(H27/7) 
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