| = 境内つれづれ = |
| ≡ 善光寺の境内にも秋の気配が… ≡ |
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| 聖きみ名 |
猛烈で異常な残暑も暫く収まり、急に秋の深まりを感じる頃となりました。 異常気象の渦中にあっても、境内の片隅には遅れて開花した彼岸花がヤット私の出番…と、赤い色を染めなしています。 あたりまえと言えばあたりまえ…大自然の法則を不思議だなぁ…と思えば、不思議さのその奥に何か偉大なパワーが秘められているようです。
秋の彼岸中、皆様にお願いした「米一升運動」もおかげさまで100キロ以上のお米が集まり、大分県内浄土宗の寺院に集まったお米と併せ、それぞれのご縁ある方々に配布されます。 ご協力を感謝し、厚く御礼を申し上げます。
さて秋の主役は、煌々と照らす名月でしょう。 お月さまを仰いでいると、しばし周囲の雑事をすべて忘れ、只々有難く、尊く拝まれます。 ことに、浄土宗の宗歌「月かげ」は法然上人の詠(お歌)で、「月かげの いたらぬ里はなけれども ながむる人の心にぞすむ」 月かげとは影ではなく煌々と照らすお月さまの光を表わし、お月さまの光は阿弥陀様の光明の如く、十方の世界を分け隔てなく平等に照らしてくださっています。
しかし、いくら名月が照らしていても、その名月を眺めようという心が働かない限り、煌々と照らしてくださるお月さまの光を感じる事ができません。 外に出てお月さまを仰ぐことにより、(ながむる人の心にぞすむ。)の世界が具現されていくのです。 輝くお月さなと感応道交するところに、私たちの心にお月さまが宿ってくださり、心が澄まされてゆくのです。
従って「月かげ」の詠は、お念仏を唱える前の偶文【如来(阿弥陀様)の光明は 遍く(あまねく)十方の世界を照らし 念佛の衆生を摂取して捨てたまわず】(阿弥陀様はお念仏する私たちを無限の光明で照らしてくださり、分け隔てなく平等に抱き取り、永遠にお育てくださる)とのお誓いを今一度お念仏裡に頂きたいと思います。 |
| 合掌 |
「栂ノ尾の明恵上人」の詠
【あかあかや あかあかあかや あかやあか あかあかあかや あかあかや月】 |
「山崎辨栄上人」の詠
【月を見て 月に心のすむときは 月こそおのが すがたなるらめ】 |
| = コ・ラ・ム = |
| ≡ 聖徳太子と善光寺 ≡ |
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| 今年は聖徳太子没後1400年にあたるそうです。 今東京国立博物館で「聖徳太子と法隆寺展」が開催されているのも、それにちなんでのことです。 「薬師如来座像」(金堂東の間の本尊)「玉虫の厨子」などをはじめ数々の名品が出展されています。 その中の一つに「善光寺如来御書箱」も展示されています。 平成5年(1993)信州善光寺の呼びかけで全国に散在する119ヶ寺の善光寺、また善光寺如来を安置する寺院、善光寺如来と深い縁に繋がる寺院、神社200余の会員にて結成された『全国善光寺会』『通称ゼンコウジサミット』が信州善光寺にて発会、その折奈良法隆寺の当時の122世高田良信管長様とお話しする機会があり、善光寺如来と聖徳太子の間に手紙が交わされたことをお伺いしたところ、下記の如くせつめいされました。 |
| 聖徳太子は亡き父の用明天皇を弔い、七日七夜にわたって念仏を行った後、その功徳を善光寺の阿弥陀如来に伺った際に、如来から送られた返事(御書)を収めたとされる箱である。全体に蜀江錦が貼られ厳封されている。 |
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「善光寺の古文書22『善光寺如来伝』」で第三幅の④に描かれている、善光寺如来の返事がこの箱に収められているということです。
この外にも『善光寺如来伝』には聖徳太子が度々登場します。
〈第二幅〉
⑨聖徳太子、物部の悪逆非道が増したため、討伐を決意。
⑩一時聖徳太子は敗走し追い詰められたが、椋の木の幹が裂けて、太子をかくまう。
⑪聖徳太子は四天王像を自刻し、勝利の暁には四天王寺を建立する事を誓う。
⑫太子の願いが通じ、八幡大菩薩の幡を先頭に攻め寄せる。
⑬物部守屋が矢で射られ、合戦が終わる。
⑭太子は一光三尊仏を難波の堀江にお迎えに行くが「待て」との仏勅により帰京する。
⑮太子愛馬黒駒に乗り、富士を始め諸国巡遊(27歳)・42歳達磨に出会う。 |
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このように善光寺の御本尊善光寺如来と聖徳太子は深いつながりがあるのです。 このため善光寺でも聖徳太子は大切におまつりしてきました。 昔境内にあった塔頭(境内にある小寺・お堂)の一つに「太子堂」があり、聖徳太子がおまつりされていました。 後に別の塔頭増長院に閻魔様と一緒にまつられていましたが、今は本堂におまつりしています。 それが「聖徳太子二歳立像」です。 上半身裸で鮮やかな赤い袴をつけ合掌した像です。
法隆寺展にも同じ二歳像が出展されています。 これは「南無仏像」とも呼ばれ、太子二歳のとき、東を向いて南無仏を唱えたといういい伝えから造られた像です。 |
| 参考文献 : 豊前善光寺史 |
| 善光寺の古文書 (第30回 令和4年10月) |
| 『 開山 空也上人 』 |
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空也上人像(豊前善光寺蔵) |
30回は善光寺を創建したと伝えられている空也上人をとりあげます。 「伝えられている」としたのは、創建した年とされる天徳2(958)年の頃の古い資料が残っていないからです。
現在、空也上人開祖に関して書かれている文書で一番古いものは元禄10(1697)年のものです。 次に古いものがその2年後、元禄12(1699)年の上に掲げた文書です。 この文書は第15回『善光寺に御茶室があった話』で取り上げました。 元禄10年の文書より創建の様子が精しく書かれているのでこの文書を取り上げました。 天徳2年から741年後の文書です。
創建以来の文書も存在していたのでしょうが、長い間に失われてしまったものと考えられます。 そこで今回は伝えられてきた空也上人創建の様子を上の文書で辿ってみたいと思います。 さらに空也上人が善光寺を創建したということが考えられるかどうか、ということも少し考えてみたいと思います。
2022年の今から創建の958年を遡っていけば、実に1061年前ということになります。 空也上人から始まり、千年余、寺に心を寄せ支えて頂いた多くの方々のお陰で寺の歴史を保ってこれたことは何よりもありがたいことに思われます。 開基以来、脈々と受け継がれてきた、善光寺のお念仏の原初を考えてみたいと思います。 |
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