善光寺の古文書 (第22回) 令和2年10月掲載

= 善光寺如来絵伝 =

【第一幅】 【第二幅】 【第三幅】
絵伝各幅の写真をクリックすると各々の拡大写真と解説をご覧になれます。
 今回は先年見事に修復ができた『善光寺如来絵伝』について紹介します。 善光寺の御本尊である善光寺如来の由来について描かれた三幅の絵伝です。 この三幅の絵伝については早稲田大学教授吉原浩人先生が調査撮影の上「豊前善光寺蔵『善光寺如来伝』考」という論文を発表しておられます。 (※1)この論考に依りながら紹介していきます。 この絵伝の成立時期については「江戸時代中期」であろうと述べられています。 この絵伝が作成された時期の裏書かはっきりしませんが一幅と三幅の裏には寄進者の名前が書かれていました。(※2) 寄進者は小笠原の江戸屋敷の家中が9口(上の寄進者裏書は家中の分)、大阪2口、後は近在54口である。 末寺塔頭の名も見えるが近在の寄進者とあわせて少ないように思います。 あるいは二幅にはそれらの裏書があったのかもしれません。
 この絵伝で注目されるのは、この絵伝の手本になった絵伝の作成はおそらく室町中期、善光寺のこの絵伝はかなり原本を忠実に写し取ったであろうと推定されています。 その理由として、善光寺如来と聖徳太子の書翰往復などが描かれていること、信濃善光寺の境内の景観も中期のものと認められることなどをあげています。 この論考の「おわりに」で、「本絵伝そのものは江戸時代のものであるが、中世の遺薫を伝える『善光寺如来絵伝』として、日本宗教史・美術史・建築史上、まことに貴重な存在と認めることができるのである。」とまとめています。
 寺に残っている古文書で本絵伝に触れた文書は残されていませんが上の写真の、「善光寺本尊一光三尊善光寺如来本縁起」にこの絵伝と照応した由来が記されています。 本来は絵伝に照応した「絵詞」があったかもしれませんが、これは外の記録に混じって記されており、絵詞ではないようです。
 絵伝の詳しい内容は解説編でご覧下さい。

※1:この論考の全文は、インターネット上でも公開されています。 論題で検索してみて下さい。

※2:寄進者名を寺の資料で調べてみると上の写真の三番目に名前を連ねている「光市左衛門」を始め、何名かを比定できました。 市左衛門は元禄十五年(1705)市左衛門署名の文書が遺されています。 比定した他の人物はこの年より古い人はいませんので、この裏書は1705年より遡ることはないといえます。 外にほぼ確実に該当する方が1名おり、その方は「宝暦十三年(1763)」に亡くなっています。 そこで1763年より降ることもないと思われます。 そこで、1702〜1763年の間にこの裏書は書かれたということが言えそうです。